さとりのこさとこのブログ

新しい技術を日常で活用・応用した気づきや たまにどーでもいいことも掲載

ポテサラの思い出

私は「たまねぎ」がかなりキライで離乳食の時から「ぺっ」と出しては

母を困らせていたぐらい抵抗のある食べ物のひとつです。


先日ポテトサラダの特集がTVで組まれ
話題になったことがありました。

その時ふと思い出した出来事が2つありました。


ポテサラの思い出1つ目は

”マンションの管理人さんとの出会い”です。

初めてルームシェアをする時に同居人から
「ここのマンションの管理人さんがかなり厳しいから
”気を付けたほうがいい”と言われていましたが

当時、引っ越ししたばかりで買い物をする場所がわからなかった私は管理人さんに

「買い物する場所でどこかいいところあったら教えてほしい」と

お願いして、管理人さんの奥様がわざわざ
お店をに2、3件一緒に案内してくれたのでした。

買い物の帰り「うちに寄っていけば?」と管理人さんの

家に入れて頂き熱燗と夕食をごちそうになったのですが、

出されたおかずが全部 ”うまい!!”

その中で一番おいしかったのが

「ポテサラ」でした。

たまねぎが入っているにも関わらず”いくらでも食べられる”

その日お土産にポテサラを1パック分頂いたのですが、あまりにおいしすぎて

同居人には黙って一人で完食してしまったぐらい衝撃の出会いでした。

たまねぎは基本「口にしたくない!」と思っていた世界から

調理の仕方ひとつで「こんなにもおいしく食べられるんだ!」と

認識が大きく変化した出来事でした。

 

ポテサラの思い出2つ目は”母の家族に対する気遣い”です。


たまねぎを徹底して口に入れないことをわかっている母は

いつも「これ、さとこ用のポテトサラダね」

と他の家族と分けてわざわざ「たまねぎ無しポテサラ」を作ってくれていました。

自分の考えの整理する前までは母が私にやっていてくれることは

”あたり前”と思い込んで「たまねぎ無しポテサラ」食べていましたが

今となってはそのひとつひとつの行為に私に対する「思い」「愛情」が
含まれていることに気づくことができました。

いつの間にか無意識深くに決断した
「自分は愛されていない人間だ」という勝手な思い込みを

認識の変化によって過去の解析も変化することで

「自分」「家族」「まわりの人たち」も含め

すべてを無限大の可能性で見ることができる

そんな技術が日本で誕生していることに改めて希望を感じた思い出でした。

※写真は最近自分で作ったポテサラです。

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