さとりのこさとこのブログ

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映画【空海】あらすじ・まとめ 新しい時代を切り開くクリエイター

私が空海について興味を持ったのが2011年。空海密教展が博物館で開催され、混沌とした時代を変えるために活動した空海に興味深いものを感じる内容でした。そして2019年にまた空海と仏像曼荼羅が博物館で展示されることになり改めて空海がどんな人物だったのか知りたいという気持ちが出てきました。

今回は1984年に公開された映画を元に内容はフィクションではありますが空海がどんな人物だったのかまとめてみたいと思いました。

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時の帝、桓武天皇が奈良の都を捨て京都に都を移動しているころ空海は大学に入るために奈良に来ていた。

奈良は僧侶の力が強くなりすぎて皇帝になろうとする者も出てきていた。


①都が変わってから6年後

空海は大学で一番の成績で一族の中でも最高の位に行けると周囲は思っていた。しかし空海は大学を辞め、出世コースから外れたいと姿を消した。

ある日、叔父宛に「故郷に帰る」と手紙が届き、叔父は急いで故郷に向かうと乞食同然の姿の空海が実家に訪れた。空海は旅の途中に故郷に立ち寄ったが、周囲は空海が狂ってしまったと思った。

 

②「人は何故生きるのか」を探す旅

空海は旅をする中で「人は何故生きるのか」自分が生きるに値する人間なのか、仏がいれば助かるはずと確かめるために崖から飛び降りてみたり、修行中に山が噴火した時は「人も大地も同じように生きている」と悟り、山の噴火で人々が絶望して自殺しようとする人たちに「生きてこそ人間」だと諭していた。

 

空海が都に戻る

桓武天皇は21年ぶりに遣唐使を出すことにした。都に戻った空海は経典を読み漁っていた。そして叔父に真の仏教である「密教」を学び海を渡りたいと申し出た。叔父からは遣唐船で戻ってくるのは半分しかいないと心配されるが「私は死にません」と言い、留学生は最低20年は唐(モロコシ)に滞在しないといけない条件を飲んで唐に向かうことになった。


遣唐使派遣

桓武天皇が新しい都を作って10年。奈良とは違う新しい政(まつりごと)、文化、宗教を作りたい。そのためには世界の文化が集まるところ唐の中心「長安」で最新技術を持ち帰り平安の都を長安に負けないぐらいの都にしたいと桓武天皇は考えていた。

奈良の僧侶を打ちのめす為、桓武天皇は短期留学生として最澄(さいちょう)を唐に向かわせることにした。

唐に向かう途中、空海の乗る船は嵐に襲われるが無事に唐に辿り着くことができた。
空海長安に向かうころには最澄天台山に向かっていた。


長安での密教修行

空海は34年前に来た留学生と入れ替わりで西明寺に入ることになった。前任の留学生からは「唐はあらゆる思想を虎のようにかみ砕き飲み込んでしまう。日本にはそれがない。空海の学びたいと思っている密教は20年以上かかるからやめたほうがいい」と言われたが、空海密教をかみ砕くためにここへ来たと言った。

それから空海は余命が限られていると言われていた恵果(けいか)和尚に密教を直接教わるため、密教の原語「梵語(ぼんご)」を3ヶ月で習得した。梵語を習得後に恵果和尚から通常20年かかると言われる密教のすべてを3ヶ月間不眠不休で学ぶことができた。


空海の帰国

留学期間が18年残っている中で日本に帰ると「流刑」だとわかっていたが空海は日本に帰国することにした。

桓武天皇は亡くなり、都は平城天皇が治めていた。空海は持ち帰った経典を平城天皇に献上するが、留学期間中に帰ってきたこと。密教はすでに最澄が持ち帰っていることもあり都に入ることを許さず九州の太宰府にいるように言い渡されてしまった。

 

平城天皇の精神崩壊

平城天皇の異母兄弟の皇子は密告され幽閉されてしまう。皇子は空海の経典のすばらしさを理解していたので空海の叔父に空海の安全を確保するように伝えた。

叔父は都は朝廷と貴族が荒れているので空海に朝廷に仕えるように打診するが空海は「平城天皇は狂ってしまい、後1ヶ月ももたない」と予言した。

そしてある日、平城天皇は「何か自分に取り付いている。お前が代わりに上になれ」と嵯峨天皇に位を譲り、病んでしまった平城天皇は奈良に移り住むことにした。

 

⑧2つの都

嵯峨天皇が京都、平城天皇は奈良、2つの都が存在している状態になり平城天皇は「自分は元気になったから奈良を再建する」と言い出した。

嵯峨天皇に呼ばれた空海は「不空密教の奇跡」の話をして国のために鎮護国家の祈祷を始めることを伝えると勇気をもらった嵯峨天皇平城天皇の館を襲撃し、嵯峨天皇の体制を築くことに成功した。


⑨奈良仏教200年

最澄は都に奈良仏教の僧侶たちを集め、奈良仏教と真の仏教の違いについて話をしていた。

奈良仏教は論議であって人を救える仏教ではない。正確な手立て、教えを導いていない。
条件によって成仏できたりできなかったり、自分さえ良ければいいという仏教は何のための仏教なのか。万人や自分も救い、国を鎮め、極楽浄土に向かうのが真の仏教だと奈良の僧侶たちに諭した。

 

最澄空海に会いに来た

最澄天台宗の教えを完成させるために密教の真髄を知りたいと空海の元を訪ねた。

空海と同じ3ヶ月で密教を習得するつもでいたが、空海からは経典を書き写すだけでは密教の教えを学ぶことはできない。密教は生きていて「言葉」「色」「体」「五感」すべてを使ってやっと伝わるもの。「文字」だけで理解することの限界を最澄に伝えると最澄空海のいる寺を去った。


⑪弟子とともに旅に出る

人を救うまで果てまでいくと都を出た。

空海が向かう先で疫病が流行っていた。一人の女性が「この世で生きていては苦しいことばかり、楽にしてください」と言うと

空海は「この世で成仏できなくて、どうしてあの世で成仏できるんだ。父母からもらった体で幸せにならないでなんで人が救われるのか。この世無くしてあの世はない。天地宇宙が生きている力とこの体に生きている力は同じなのだ」疫病で苦しい人たちのためにお経を唱えて回った。


⑫讃岐の国に50日で大きな池を作る

毎年讃岐では雨が降ると88もの川から流れる水で田が流され、多くの人が亡くなっていた。
地元の人からは空海の力で壊れない池を作ってほしいと依頼を受けた。

空海は「ここで生きたいと願う人たちを集めるよう」に伝え人を集めると

「今日よりここに海を作る。作らなければ皆が生きていけない。病に倒れたり女性が身売りをする。その苦しみから脱出するのは今しかない」

空海はこの地で寝ずに護摩(ごま)を焚く。天地の力も呼びよせて雨が降らない50日で完成させると言い切った。空海の祈りと村民の努力により50日で大きな池が完成した。


高野山に寺を建立

空海は弟子たちの修行のために寺を建立することを嵯峨天皇の承諾を得に来た。嵯峨天皇空海が都を離れることを不安に感じていた。

空海はここ100年、天皇が変わる度に血が流れていること。嵯峨天皇が夢にうなされていることを言い当てた。平城天皇嵯峨天皇の争いの種がまだ残っているため次の世代に天皇の位を譲るように提案した。

嵯峨天皇空海の提案を受け入れたことでその後30年間は血が流れることはなかった。

多くの弟子を抱え教えを説いた空海は承和2年3月21日、自ら即身成仏となりその生涯を終えた。

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約1200年ほど前に密教を日本に広めた人として有名ではありますが、日本にどんな影響を与えた人なのかよくわかってはいませんでした。

空海密教をかみ砕くと言っていたように当時の宗教も含め、日本人一人ひとりの社会全体を理解することの知識不足や日本の土木技術が遅れていたこと、そして朝廷に入ってしまうと強者と弱者の関係性に固定され、利権のためだけの行動になってしまうこともわかっていたので、密教を通して「天皇」にしろ「民」にしろ、すべて「1:1」で目の前の人が「人がなぜ生きるのか」「宇宙自然や社会とのつながり」について日本人の理解する能力が上がることに注力を注いて日本全国を回っていたと思いました。


当時の人たちからすると空海のやり方はかなり逸脱した考え方で時代を切り開いていったように見えますが、今の時代と共通して言えることは時代が変化を迎えようとしている時に現在の社会システムの中でのルールで〇×、正しい正しくないを決めようとすることには限界があることです。

 

それを解決するには現在ある社会システムを外から客観的に理解・分析する力と解決策を提案できるクリエイティブ能力がこれからの時代、必要になると感じています。

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